地震 |
2011-3-15 21:51 |
今回の地震は大変な事態である。
発生当時、自分はビル18Fにて仕事をしていた。
自分を含め、周りの人たちは
「あれ?目眩かなぁ?貧血?」
と各々に思い、そのまま仕事を続けるも、揺れが増し、ようやく
「地震?」
と顔を見合わせる。
段々と強くなる揺れに、キャスター付きのキャビネやコピー機が動き始め、椅子にも座っておられずそのまま皆机の下に潜り込んだ。
動き回る椅子、キャビネットの引き出しは飛び出し、書類が散乱。
幸い上から落ちてくる物は無く、壁や窓も平気だったが恐ろしく長い。。。
今までに地震は何度か経験しているが、本当に長かった。
自分は、叫び声を上げたりパニックになる事は無く冷静でいたつもりだったが、揺れが治まると心臓は高鳴り、初めて手足が震えるという経験をした。
「凄くゆれたねぇ。。。18Fだからかしら」
なんて床に散らばった資料を取り上げ、動いたキャビネ等を片付ける。
パソコンに向うもなかなか集中出来ない。
「設備点検で警備員が点検しているからそのまま待機して下さい」
ビル内にアナウンスが入る。
しばらく周りの人たちと地震の話題をしていると再度の揺れが始まる。
恐らく余震だろう。
今回は様子見をするまでもなく机の下に避難。
と、同時に自分はパソコンのデータを保存して電源を落とした。
再度長い揺れ。
一度目程の強さは感じられなかったが、とにかくずっと緩やかに揺れているので建物酔いならぬ地震酔い。
周りでも「気持ち悪い」という声が上がる。
その後、何度かの緩やかな揺れを感じた後、館内放送より
「全ての電車が停止しております。徒歩、または公共設備で帰れる人は帰宅して下さい」
のアナウンスが流れる。
自分は、バスで20分、徒歩で多分1時間30分くらいで帰れる距離なのでしばし考えたあげくビルに残る事に決める。
18Fという場所は悪いが、賃貸の自宅に戻るより、ビルの中の方が安全に感じられたからだ。
恐らく、耐震強度は自宅よりビルの方が良いと思われる。
フロア内に80名いた人々は早々と帰路につき、自分を含め7名程が残った。
自分以外は電車が無ければ到底帰れる範囲内にいない人々である。
パソコンを早々と落としてしまったので、状況を確認する事が出来ず、その時はまだ
「宮城で震度6強」という速報ニュースと、「津波で家が流されている」の情報しか知らなかった。
18時過ぎにビルを後にすると駅は封鎖され、駅前のバスターミナルには人が溢れかえっている。
バスに乗れなかったら歩く覚悟でバス停に向うと、タイミング良く目的のバスが到着、更にそのバスに乗る人は少なく、周りのギュウギュウ詰めのバスを尻目に乗客10名程で発車した。
バスの中で、数人の友人とメールが出来たので安全を伝え、まだボンヤリと「帰れない人は大変だなぁ。。。」と思っていた。
道路が大渋滞とのアナウンスがあったものの、30分程で最寄のバス停に到着。
下車すると側のタクシー乗り場には長蛇の列。
この時には既に携帯は全く通じず、メール送信もままならなかった。
後に兄からの連絡によると、16時には全く連絡出来ない状態だったようだ。
とはいえ、これは同じキャリアの携帯同士が通じにくかったのか、都内同士が通じにくかったのか、ソフトバンクの自分と、auの母、ドコモの親戚、ソフトバンクのハトコとのメールやり取りは問題無く出来ていた。
まだ15時以降の情報を仕入れていなかったので、事態の大きさを把握しないまま家に向うと、隣のアパートのタイルが崩れて道路に散らばっていた。
それを見ても、揺れが大きかったのは18Fにいたからだと思っていたのだろう、「大変だなぁ」くらいにしか感じなかった。
しかし、玄関を開けて改めて地震の大きさに驚愕する。
玄関に置いてあるキャスター付きの棚は倒れ、吊るしていた鍋やフライパンも落ち、スパイスが散乱している。
とりあえず棚を元に戻さない事には家の中に入れ無いので鞄を肩に掛けたまま片付け始める。
キュウスの取っ手が外れて割れているのを目にしたので、鞄に入れていた新聞紙を取り出し包む。
マグカップも1個割れていた。
ようやく玄関を片付け中に進む。
危険を感じ、ブーツのまま入ると、キャスター付きのワゴンが道を塞いでいたのと、棚に置いてあった本が散乱、しかしパソコン、テレビは無事だった。
ゴミ袋を取り出し、一通り片付け終えたのが2時間後の21時を回ったところ。
その時もまだ都内の帰宅難民の情報しか心配していない自分は、兄や友人にメールを送り続ける。
クタクタになりながらようやくテレビを点けると、衝撃的な映像!
それまで心配していた都内の帰宅難民問題を遥かに上回る凄まじい宮城の津波!!
地震発生から6時間以上が経過してからの現実に驚愕するしかなかった。
と、同時に都内とは言えども連絡の繋がらない友人達に安否の確認を急ぎたい!
固定電話を取り出し、何度もダイヤルを繰り返す。
運よく繋がった友人の携帯は、暫くして留守番電話に切り替わる。
?!!!不安が広がった後、暫くしてその友人から安否確認のメールが届く。
とりあえず無事らしい。
兄の安全は実家の母を通じて確認出来ていた。
残る友人には、一向に連絡が着かない。
その友人こそ、塗料製造の技術の仕事をしており、且つ、海に近い立地という勤務地なので不安が広がる。
1時間以上電話のリダイヤルを繰り返していると、ようやく友人から返信メールが届いた。
無事らしい。
会社規定により会社待機命令が出ていたのと、完全に歩いて帰れる距離では無いので、そのまま会社で一泊が確定していた。
一通りの安否確認をしてからテレビに噛り付く。
この間もずっと余震で揺れていたので、我が家の危機管理レベルは最高手前まで上がり、ブーツからスニーカーに履き替え貴重品だけを鞄に入れ、そのまま朝までテレビの前に座っていた。
発生当日は、宮城の被災地を心配すると共に、都内にも何が起こるかわからない不安で緊張状態が続いていたのだ。
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